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2005年12月30日〜2006年1月3日
From Bangkok


屋久島旅行記 〜番外編〜 

歩け!屋久島


・・って、別に屋久島は歩きません。歩くのは私です。
前回5月に訪れた際に聞いた「屋久島1周ウォーキング」に参加する為に、再びここ「屋久島」にやってきた。
1周約97Km。24時間以上掛けて歩く己との戦い。何故かこの無謀な挑戦に挑むことになる。。


今回もタイから参加なので悩んだ挙句福岡INとした。福岡には前回一緒になったまりちゃんがいる為だ。ここで合流し、福岡から鹿児島まで高速バスで南下。(福岡08:00→鹿児島11:40)
鹿児島からは前回と同じ高速船トッピー(鹿児島12:50→屋久島15:25)で屋久島へ渡る。

「また来たんだ。。」
半年振りの屋久島。当然だけど大した変化はない。相変わらず何故か晴れていて、歩くと少し暑いほどだ。やはり南国。そして街中には嬉しい事に、「屋久島1周」のポスターが至る所に貼られている。否応にも気分が盛り上がる。今回、晴耕雨読は満室だったので、近くの宿「とし」に宿泊となる。年末年始ということで、かなり多くの人が屋久島を訪れているようだ。「とし」も本館が満室で別館(?)に宿泊する事となった。男3名との相部屋である。
(写真右:街中にあった屋久島1周ポスター)

ここで前回屋久島で会ったみんなとの再会があった。
一番楽しみにしていたのでやはりとても嬉しい。前回きれいなお姉さん役で出演して頂いたかずちゃんも来ている。実はもうこの段階で結構満足だったりしていた。この日を楽しみにしていたんだなあ、と改めて思う。

スタートは元旦の12時である。
前日の大晦日には「前夜祭」が開かれた。宮之浦にあるパブで晴耕雨読のオーナーらが活動しているバンドが出演し、歌を披露してくれた。小さなパブには溢れんばかりの人と、そして熱気が渦巻いている。みんな興奮気味に歌を歌い、会話を楽しむ。ウォーキング参加の常連さんや自分のように初参加の人など様々だ。

でも、この段階になっても「けっ、1周なんてちょろい。へなちょこだろう」などと思って侮っていたのは自分を含め何人ぐらいいたのだろうか。
その後は小雨の振る中、近くの神社(益救神社)へ向かう。新年のお守りとお神酒を頂き、翌日の晴天を祈って宿に戻る。 (写真左:前夜祭の様子/参加費1000円)


相変わらずいい加減だなあと思う。ほとんどこれといって特別に歩く準備はしていなかった。カッパすら持っていない。会う人会う人に「ええー!カッパないんですか?」と驚かれてしまい、さすがに不安になって当日の朝、かずちゃんと(彼女も持っていなかった)近くのお土産屋さんでレンタルする事にした(2泊で800円+保証金1000円)。

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今回で10回目を迎える屋久島1周は、実はこれが最後なのである。10年前、晴耕雨読のオーナーらが何気に1周歩けるか?って乗りで始めたそうだが、それが毎年行われるようになって現在に至っているそうだ。ほとんど呼びかけなどもしていないのに、口伝てだけで今回約100人ほどの人が集まった。みんなが主催者。どれだけ時間を掛けてもいいので、ゆっくり自分のペースで1周97Kmを歩く。完歩率は6〜7割りというから、決して楽ではない。
(画像右:屋久島1周の案内書)



2006年1月1日−
天候は曇り。時々ぱらぱらと小雨も降るが傘がいるほどではない。早起きしておにぎりを作ったりしていたので、気分はすっかりピクニックである。
午後12時。屋久島公民館に集合。みんなカッパを着込んでいる。どんな山でも歩けるような装備をしている。私服っぽいのはやはり自分だけである。まあ、カッパ借りたし、折りたたみ傘もおにぎりもあるし、大丈夫だろう。 (写真右:屋久島の公民館での出発風景)

いよいよ出発だ。


≪屋久島1周行程図≫ ※当日は左回りで歩きました


出発・宮之浦〜いなか浜


写真:休憩風景(上)と
遠くに見える西部林道(右)
どんより曇った空の下、快調に足が進む。幸い雨は上がり、暑くも寒くもなく歩くにはちょうどいい。出発してすぐは他の参加者達と同じようなペースで歩く事になる。みんなこれから挑む大きな挑戦を前に、興奮気味だ。会話も弾んでいる。結構な数が歩くものだ。改めて100人という数を感じる。元旦の屋久島では恒例なのか、お土産屋さんが歩道に出てお菓子やぽんかん(ミカン)を配っていたりした。無料なのでもちろん頂く。

とにかく初めの頃は元気で、冗談を言ったり写真を撮ったり、後ろ向きに歩いたりと勢いは止まらない。時々陽もさし、雨上がりのマイナスイオンとともにとても気持ちがいい。途中、島の人達からもぽんかんをもらったり、声を掛けて頂いたりして気持ちも昂ぶる。

前回、運良く海ガメの産卵を見る事ができた「いなか浜」に到着したのが16時30分。歩き始めて4時間半だ。ここまでの距離が21.8Kmだから約時速4.8キロで歩いている事になる。後のペースを考えればこれは結構ハイペースだった。
ここまでは笑顔。そして最初の難所・西部林道にさしかかる。



漆黒の西部林道

西部林道入り口
災害って・・・
何故かとっても元気なかずちゃん

4時間を越えてくると少々足が痛み始める。初めて疲れを感じてくる頃だ。だがまだまだ問題なく歩ける。西部林道に入ったのは歩き始めて6時間、午後6時ぐらいだった。

西部林道。その名の通り屋久島西部に位置する森林地帯である。一部が世界遺産指定地域にも入っており、民家などは全くない。幸いアスファルト舗装はされているが、起伏が激しく曲がりくねった道が多い。この山道が実に25Kmも続くのである。そしてすでに辺りは真っ暗になっていた。

あれだけたくさんいた人達もほとんど見なくなった。どこにいるのか分からないし、地名がないので自分がどこを歩いているのかも分からない。日が落ちた夜の森というのは恐ろしく暗く、時々遠くの方から聞こえる海の音と、自分が発する音以外は完全な静寂が広がっている。更にどうやら新月のようで月明かりもない。つまり限りなく闇に近い状態だ。場所によっては1m先の道すら見えなくなっている。視力を奪われた、もしくは目を閉じて歩いている状態に近く、時折、平衡感覚を失う事すらある。何故そんな事になっているのか。
簡単である。懐中電灯を忘れたのだ。(かずちゃんも) 幸い一緒に歩いていた女の子が持っていた為最悪の事態は免れたが、それにしても相変わらずである。


8時間を越えると痛くなっていた足が麻痺し出した。お陰で快適に歩く事ができるが、日常生活で歩く限界の距離をすでに越えている。これからはまったくの未知の世界だ。
西部林道の序盤では色々なことが起こった。突然スコールに巻き込まれるは、唯一あった電光掲示板では
「永田−栗生 災害 通行注意」

などと中途半端に人を不安にさせる表示が出ていたりする。結局、途中土砂崩れみたいになっている場所があり恐らくその事だろうと思うが、真っ暗だったのでそれも良く分からない。
それでも時々来てくれるサポーターの方々の車には助けられる。声を掛けてくれたりコーヒーを出してくれたりと。今回は参加を見合わせた人や事前にすでに歩き終わってサポーターをしてくれている人などがそうだ。この人達がいなければ確実に完歩までの道のりは遠くなっていたと思う。


午後10時を過ぎた。単純に10時間歩いている。麻痺していた足もすでに痛みの感覚を取り戻し、股関節やふくらはぎも悲鳴を上げている。確実にスピードも落ちている。絶えかねて時々休憩をしたが、長く休むと体と足が冷え、いざ動こうとするとロボットのように動けない。疲れから来る痛みが足全体を襲い、前に歩く事ができないのだ。体と足が暖まるまで約30分。それまでは爺さんのようにヨボヨボと歩く。南国屋久島とはいえ、さすがに冬の夜の森は冷える。すでに4.5枚の服を重ね着している。もはや出発当初の元気はない。冗談どころか、口数も少なくなっている。いつ終わるか分からない闇夜を歩く。

それでも西部林道に入ってからはすっかり雨も上がり、星空が見えてきた。新月だった為、かなりの数が見える。周りに明かりがないので結構きれいだ。星明かりで夜道も見えてくる。西部林道を抜けた先の町「栗生(くりお)」では、なんと炊き出しをしていてくれるという。今はそれだけを楽しみにひたすら歩く。歩く。。
それにしてもかずちゃんはなんであんなに元気なんだろう。



栗生(くりお) 〜中間点と炊き出し〜

一見すると族のたまり場のような栗生の休憩所 差し入れ

「民家が見える、街灯がある!」 午後11時、長く辛かった西部林道が終わりを告げた。人工的に造られた明かりだが、人間、いや動物は本能的に明るいものに惹かれるのだろうか。とても安心する。
「クリオ、クリオ・・・」

中間地点であり炊き出し地点である栗生へ向かってよたよたと歩く。
午後11時30分。遠くから笑い声が聞こえる。人がいる気配がある。ようやく着いたのだ。

自動販売機の前に数十人の人が集まっていた。栗生(中間点)到着。ほとんどの人が座っている。転がるように辿り着くとそのままどかっと腰を下ろした。すでに感無量である。よくここまでやってきたものだと思う。出発から11時間30分、46.8Kmの行程である。座るとすぐに鳥だんご汁を頂いた。温かくておいしい。生き返る。できればこのまま永遠に休んでいたい。。などと思ってしまう。

実際、隣に座っていたご夫婦からは、ここでリタイアするといった会話が聞こえてきた。自分の足も、ばんばんに腫れ上がり、痛みから激痛に変わりつつある。
鳥だんご汁の他にも、ふらふらになった足取りでおにぎりやから揚げなどの差し入れもらいに行ったりした。そして、日付が変わった24時、再び出発する。あまり長く休憩するのも良くない。・・でも、あと51Kmもあるのか。。



栗生→安房 〜寒さ、痛さと眠気の中で〜

2006年1月2日の朝焼け
宮之浦への看板
終わりなき道
安房

「栗生を過ぎたら街部に入るので、明るい街灯と平坦な道が続く」、という希望は栗生を出てすぐに打ち砕かれた。西部林道並みの山道と暗闇がそこには続いていた。諦めて歩く。

後で思い出しても、一番辛かったのがここらから朝方にかけてである。足は言うまでもなく激痛が襲っており、引きずるようにして歩くのが限界。寒さもひどい。歩いているうちは何とか耐えられるのだが、休憩をするとあっという間に体が冷える。どれだけ厚着をしていてもだ。眠気も思い出したように襲ってくる。休憩中にちょっと下を向くとすぐ意識が飛びそうになる。雪山で遭難し、寒さで眠くなるのはこういう事なのかもしれないと思った。

寝てはだめである。ちなみにかずちゃんは相変わらず元気だが、どうも眠気には弱いらしく、歩きながら道端にある草むらに落ちたりしていた。


1月2日午前7時。待ち望んだ夜明けである。尾之間まで来た。夜が明ける事を切望していたのだが、いざ明けてみると横目でちらりと見るだけの余裕しかない。前に進む事だけで一杯なのだ。腰から下は鉛の様に重く、踵から下は疲れと痛みしか感じない。恐らくまめも幾つかできている。歩調もトボトボから、トボ、、トボ、、とまで落ちてきている。幸運にも快晴で涼しく、気持ちがいい朝なのだが、それを堪能する余裕はない。

しかし明るくなると嬉しい事がある。看板が見える事だ。現在位置を確認でき、どこを歩いているか分かる。そして、歩き出して初めて「宮之浦」と記載された看板を見つけた。まだまだ先だが、ああ、ゴールは確実に近づいている。

日が上がってくると体が喜んでいるのか、少しずつ歩けるようになってきた。もちろんペースは遅く、休憩をしながらだが。でも正直何故、今歩けているのか分からない。義務だろうか、責任だからだろうか。分からないが痛い足に鞭打ち、前に進む。


13時30分。安房到着(77.8Km)。すごく嬉しい。前回屋久島に来た際は、ここに上陸した。初屋久島を経験した思い出の地である。安房の小さな船着場、バス停横に咲いていた小さな黄色い花。暖かな南の風。すべてが鮮明に思い出される。そして今、ここを歩いているのだ。歩き通すのだ。

・・・が、気力とは別に突然原因不明の激痛が両足を襲った。
すでに足の鉛状態は回復不可能なのだが、それまで足を下ろす毎に感じていた痛みが、激痛に変わった。何故かは分からない。隣に歩いていた老人とほぼ同じ速さでしか歩けない。そして、すでにかずちゃんらとは数十mの差があり、追いつく事は無理な状況である。残念だがここからは別々に歩いた方がいい。このペースではゴールが何時になるかは分からない。

その旨を先で止まって待っててくれた2人に告げた。ここからは1人での行動である。・・と、思って安房の坂を下っていたら、下からかずちゃんがすごい勢いで上がってきた。どうしたのか理由を聞くと、「さっき寄ったトイレに折りたたみ傘を忘れちゃった!」との事。
唖然とした。競歩の勢いで歩く彼女が何か違う生き物に見えた。



安房、そして・・・

暑くなって一時脱いでいたカッパを再び着込んだ。お昼を過ぎて雲が出てきて冷えて来たのだ。暗くなるのが夕方6時、7時として残り19.2Km。時速5kmで歩いてちょうど間に合うぐらいだ。日のある内に辿り着くのは無理だろう。激痛を発してから時速は2Km程度まで落ちている。一番酷い時は1歩が10cm〜20cmぐらいしか前に進まなかった。15時を過ぎてようやく痛みが和らいできたが、それでも無理をして時速3Kmが限界だ。

応援の看板
強風

安房からは1人で歩いている。1人になると今まで感じられなかったものが急に自分の中に入ってくる。木々のざわめきや風の声、看板の文字や空の色。自分の奥深い所まで入って行くのが分かる。

ここからは己との戦いだ。もはやこれ以上的確に足の状態を形容する言葉が見つからない。残っているのは気力のみ。休むという選択はあってもリタイヤという事は一度も考えなかった。ただ歩くだけ。生まれてからずっと行ってきたこの行為を続けるだけに、リタイヤもくそもない。


前夜祭で完歩経験者が話していた2つの言葉が蘇った。

「我慢」
「どれだけ辛くても、1歩進めばそれだけゴールが近くなる」

今、身に染みてその意味が分かる。こんなに少ししか前に進めないのでは、まるで焼け石に水のような気にすらなってくる。ゴールできるのは一体いつだろう?安房に着いて喜んでいたが、考えてみたら残り20Kmって普通歩く距離じゃない。気が滅入ってくる。直に日も落ち、また暗くなる。
でも進んだ。その思いは新興宗教の信者に近いものがあるかもしれない。何があっても前に進む。本当に気力だけだった。

果てしなく長い時間が過ぎてゆく。痛みと疲れに耐えながらゆっくりゆっくり前へと進む。そんな自分を試すかのごとく、屋久島空港を過ぎたぐらいから風が強くなってきた。日が落ちた18時過ぎには、それは突風と呼べるものになっていた。

ゴールを意識して、少々ハイになっていた為、それまでよりも幾分速い速度で歩けていたのだが、それでも時々前に進むのが困難になるほどの強い風を受ける。海が近い場所では、風に乗って波しぶきも襲ってくる。最初、雨が降ってきたかと勘違いしたぐらいだ。台風のような強い風に煽られていると、何故か可笑しくなって1人で笑ったりもしていた。ただ、向かい風ならまだいいのだが、横から吹く風には何度も転倒しそうになった。ふらふらだからである。時々、隣を車で走る島の人が、「この風の中じゃ歩けないから、乗って行け」と声を掛けてくれる。嬉しいが、乗った瞬間意味がなくなる。これまでの苦労が消えるのだ。「大丈夫です!」と、声だけは元気に返答する。

午後7時30分。宮之浦まで4Kmの看板を発見する。
どっと力が抜けた。
「93kmも歩いたのか・・・」

思わず笑みがこぼれる。そこに座り込むと、不思議とすごい達成感が沸いてきた。そしてとても可笑しくなってきた。歩いていて一番胸が熱くなった時である。暗闇と、疲れと、痛みと、風と、孤独と、自分と戦い続けている最中だからだ。

相変わらず風は強く、海岸線が近い所では暗闇に大きく舞い上がる白い波を見る事ができた。人の背よりも何倍も高い波が来ているのだろう。普通1人でこんな風の強い夜道を歩いていたかなり怖いと思うのだが、ハイになっている為それほど何も感じなかった。ゴールは近い。


ゴール!足型を採取 祝!完歩賞

1月2日、午後9時12分。宮之浦公民館に到着。33時間12分。完歩だ。
すでにゴールしたかずちゃんが待っててくれた。8時半頃、到着したらしい。完歩者にはその場ですぐ、足型を取り賞状に押してくれる。左回り者には左足、右回り者には右足をだ。時間や名前は晴耕雨読のオーナーが自ら書いてくれる。嬉しい。

ゴールしてから何か食べさせてもらった気がするが、何を食べたか記憶にない。興奮と疲れと痛み、そして眠気でふらふらだった。一刻も早く風呂に入って寝たかった。でも、まだまりちゃんがゴールしていない。サポーターの人の話だと、明日の朝になるそうだ。寝よう。


「とし」に帰ってくると、結構他の人達はすでにゴールしていた。25時間程度との事。・・・考えると、13時頃なので自分はまだ安房辺りを歩いていた事になる。。
着替えて、ゆっくり風呂に入っていたら、知らない間に寝てしまった。また嬉しい事に「とし」の女将さんがおにぎりと味噌汁を作ってくれていた。なんと有難い事だろうか。着替えや風呂に入るのですら痛くて上がらない足と戦いながら、おいしく頂いた。そして、その夜は爆睡。睡眠が嬉しかった。

翌1月3日の午前中の船で屋久島を出る。
なんとまだ歩いているまりちゃん達を車で応援に行き、島を後にする。
(ちなみにまりちゃんは、48時間16分で完歩しました!)


屋久島1周97Km。そこには人を動かす力がある。人を動かし、心を動かす大きな力だ。
宮之浦到着後の達成感も格別だが、それよりも屋久島1周にはその道中に大きな意味があるように思う。
人それぞれ感じ方は違うだろうし、今回歩ききった事で自分が大きくなったとも思わない。
正直、9割以上が苦痛との戦いである。ただ残り1割の気持ちはそれを覆す。

何故、屋久島1周に参加したか。
理由はない。ただ屋久島で出会った人達にまた会いたかった、それだけである。


安房を過ぎて1人で歩いている時何度も思ったのが、
「あほだよな、あほだよな。。」って言葉。
みんなあほだし、自分もあほだ。
でもそんなあほが好きだし、もし万が一、第11回が開催されるとすれば、やはり参加したいと思う。目標だった30時間を切りたい。

みんなありがとう。


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